プロダクションノート
ミュージカルから映画に。そして、未来へのかたちに。
もともとこの企画は、2017年7月に開催された砥部町民ミュージカル「シンパシーライジング」の脚本を同町出身である大森研一監督が担当したところから始まっている。2日間限定の公演は両日超満席、出演者・観衆ともども想像を超える感動で公演の後には「映画化しよう!」という機運が自然に高まり、佐川秀紀町長をはじめ窯元の皆さんと一緒になって『映画化』へと動き始めた。翌年18年には町内で「砥部町映画実行委員会」を組織。その後、監督が砥部に何度も帰り実行委員の皆さんと打合せを繰り返し、実際に撮影隊が砥部町に来た時を想定して役割分担。同時に東京でもスタッフ、キャストの選定を、映画を映画として世に出すための準備が進められていた。そうして、19年9月中旬に撮影がスタート。長い期間をかけて丁寧に砥部の方々と苦難を上り下りした気持ちを引き継ぎ、舞台のタイトル『シンパシーライジング』から思いが昇華して『未来へのかたち』へと繋がった。
映画の完成に必要不可欠だった、砥部町チームの力
砥部町には窯元が100軒以上も有る。どの器が、どこの窯元さんの器なのかスタッフには全く識別できなかったが、さすが砥部の方々はすぐに「それは○○窯さんや」と器を見ただけで判断できる。そんな味の違う窯元を表現するために、今回、キャスト陣はそれぞれの窯元の方に指導をしてもらっている。伊藤淳史さんは本編で「りゅうせい窯」の撮影場所だった「きよし窯」の山田公夫さん。同じく内山理名さんは、奥さんの山田ひろみさんに絵付けのレクチャーを受けた。橋爪功さん、吉岡秀隆さんも本編中の「高橋窯」の撮影場所である「八瑞窯(はちずいがま)」の白潟八洲彦さん(”生命の碧い星”の創作者)に指導頂いている。また聖火台(シンパシーライジング)の絵付け(伊藤さんの絵付けと吉岡さんの吹き付け)は「和将窯(わしょうがま)」の山本和哉さんに指導頂いた。
また、本作は映画全体を通して砥部町の方が関わっている。東京からスタッフが撮影で入る頃には、あらゆるものが準備されていた。朝昼晩の食事、移動車両、車止め、そしてモニュメント(聖火台制作)。まだまだ夏の暑さが残る中、連日助けて頂いた。基本的には「大森監督が連れてきた映画関係者」ということでスタッフ全員信頼をしてもらえ、地元の方々とのコミュニケーションには困ることは全くなかった。まさに本編同様に『未来へのかたち』チームが一丸となって作り上げた映画だ。砥部町の皆様には感謝しかない。
監督の経験が映画の物語にも生きている
実際にモニュメント(聖火台)を作るべく、幾つかある採石場のなかで最も良質な陶石が取れたとされる、いにしえの採石場を目指して2019年5月に白潟八洲彦先生の案内で実行委員会委員長の泉本明英氏・大森監督・モニュメント制作メンバー数名で山へ出かけた。先生の記憶のみで道らしい道のない中を探索し、何とか100kg余りの陶石を採掘。監督はこの体験を元に映画の中へ“竜見(橋爪さん)の記憶だけが頼りで山に家族で向かう”という場面を加えた。このように監督は、砥部焼の歴史や実情そして窯元の皆さんとの対話と経験を台本へ取り込み作り上げていった。本作はフィクションでありながら、ともすればドキュメントのごとく綴られた物語といえる。
砥部焼で聖火台を作る!妥協しない職人達と受け継がれる伝統
映画の物語にあるように「砥部焼で聖火台をつくる」こと、磁器で大物を焼くのは本当に困難とされている。本来、映画では美術でハリボテ的に制作することが選択されるだろう。だが、本作は実際に本物の聖火台を砥部焼でつくっている。大物の磁器の焼き物は劇中同様に難しい。その「技術」を地元の若い窯元たちは今まで経験するすべが無かった。だがその技術の第一人者である白潟八洲彦先生が実際に聖火台制作をする中で若い窯元さんたちに経験して貰いながら制作をしている。それは、砥部焼の職人からも本当によかったと声が上がった。「石選び」からはじまり、あらゆる工程を皆で一緒に行った。そして同様に監督もこの行程に身を持って参加し、苦闘を共有している。ようやく形が出来ても、焼くとヒビが入ったり、火を入れた後に割れてしまったり、映画の撮影に間に合わないと言われたこともあった。地元の方は「この聖火台制作だけでも、“大物制作の伝受”という意味で物凄いことだ!」と貴重な経験をさせてもらったと語っている。